Spa Resort Hawaiians きづなリゾート

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ハワイアンズヒストリー

常磐ハワイアンセンター

(2)オープン1ヶ月前、高鳴る不安

建設現場の工事は槌音も高く、順調に推移。
昭和40年12月には、かしこに南国ムードが溢れる日本最大のドームが完成しました。

ハワイアンセンターの“エンターテインメント”を極限まで図ろうとする「フラダンスショー」も、勿来(なこそ)海岸での公演を皮切りに、全国70ヶ所に及ぶ巡回公演を終了。
このイベントは、新聞・ラジオ・週刊誌・テレビなどのマスコミ各社に競って取り上げられました。

予想をはるかに超える上々の前評判。
社長の中村豊は安堵の気持ちを強くしていましたが、心の深奥には一抹の不安も抱えていたのでした。
中村は、自らの内にあるこの正体不明の不安を払拭しようと連日、現場に出向いてチェックを怠らなかったものでした。

オープン一ヶ月前、同40年12月上旬。いわき地方は珍しい冬の嵐に襲われました。
常宿の第一別館にした中村は早暁2時、激しい風雨の音に目を覚ましました。

「これだ!」

中村は、唯一つチェックをしていなかった重大事案に気付きました。
「これを確認し、克服しない限りオープンは無理だ、出来ない。ボス抜けとはこのことだ」
中村は布団の上に立ち上がりました。

オープン一ヶ月前。どうにか目途がつきました。
しかし、スタッフは疲労困憊。
そんな折、中村から突然の召集が全スタッフに流れました。
外は依然として強い横なぐりの雨、風。嵐は猛威を振るっていました。
訳がわからず集まったスタッフの前に、長靴を履き、雨合羽をまとった中村が現れたのは午前3時でした。
「今から、目玉商品のフラダンスショーを最大に演出する、センター(※ハワイアンセンターのこと)の照明チェックを行う。今までは、真っ暗の中でやっていなかった。全員スタンバイせよ!」
極寒の中、照明テストは約2時間に渡って続きました。

後日、中村はその時の話をポツリ。

「不思議だ、疲労困憊の筈なのに彼らの顔は輝いていた。」

「真夜中の召集に誰も苦情を言わなかった」

「全員が俺と同じ“社長”として、自分の施設だ、成功させるという意気込みがあった。」

「全従業員の“一体感”を初めて感じた」

「間違いなく成功する」

中村はこの時の作業に強い感動を受け、「オープンに向け、ひた走ることが出来た」とも回顧していました。

つづく

(1)“明日はない!”。会社存亡の危機

 国家の基幹産業の雄として、また、本州最大の炭砿として“黒いダイヤ”の時代を謳歌してきた常磐炭礦。
 だがそれも昭和30年代半ばになると、いわゆる「エネルギー革命」が怒涛の勢いで世界を席捲し始めました。
 この「石油の時代」の到来によって、日本国内も石炭需要はみるみる激減。興隆を極め続けた全国の“ヤマ(炭砿)の灯”もまるで小石が坂道を転がるように、次々と消滅していきました。
 常磐炭礦も時代の波には抗しきれなかったばかりか、一転、会社存亡の危機にまで急変しました。

 常磐炭礦を継続するには、さらに一層の合理化及び「天敵」である坑内から大量湧出する温泉の排水処理を、それにかかる2億円の温泉代を新たに捻出することが不可欠でした。
 そのためには新たな事業を興し、合理化によって余剰となった社員たちの雇用の受け皿と、温泉代を負担する利益の確保を図らなければなりません。
 つまり、経営危機に陥りつつある会社を救済する新たな会社を起業、成功に導かなければ、「“常磐”の明日はない!」という厳しい状況にあったのです。
 以来、苦節3年。会社の首脳は苦しみながら将来展望の青写真を描き続けました。

 遂に昭和41(1966)年1月15日(この年の秋、14市町村が合併し、いわき市が誕生)、「常磐ハワイアンセンター」が開業、日本で初めてのテーマパークが産声を上げたのでした。

 約600名の従業員は全員、炭砿より受け入れ、さらに常磐炭礦に対して年間2億円の「温泉代」を捻出、使命を果したのです。

つづく

ハワイアンズについて

常磐ハワイアンセンター物語

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